「分かりやすい説明」の危険性(憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記 より)
短く分かりやすい文章にするためには…(中略)…どうしても情報や結論に至るプロセスなどを削らなくてはいけない。全部書いていたらキリがなく、読者も期待していない。わかりやすく書いてしまったため、基本的な情報が欠落し、結論だけが読者には読まれる。その結論も、ある特定の立場に立った場合の結論でしかなく、私もそれは自覚しているのに、読者は私が述べた結論が私の考えのすべてだ、と誤解してしまう危険性がある。
簡単なことを、わざと難しく述べるのは、実は簡単だ。しかし、難しいことを簡単に言うのは難しく、そして誤解を生む危険性がある。書き手と読み手、どちらも気をつけなければならない。
同じ様な内容のことを常々書こうと思っていたのですが、とても良く書かれているので、リンクと引用させていただきました。メディア論の基本かもしれませんが、「分かりやすく、読んでもらえるように書く」のと、「相手に誤解を与えないように、十分正確に書く」というのは、ある種のトレードオフの関係にあるわけですよね。
よく、TV報道の偏向性の議論でも、制作側はそんなに偏向を加えるつもりはなくても、この「分かりやすさを求める姿勢」がさらに屈折度合いを高めてしまう事がある、と言うような話(いいわけ?)を聞きます。
この問題を読者・受け取り手側の主導で解決するとすれば、
・分かりやすい文章より、分かりにくくても正確な文章を求める文化が定着する
・もしくは、分かりやすい文章を読んだとき、このような危険性を含んでいることを自覚し、情報を受け取る。
確かに、今の読み手は昔に比べて「ラク」をしすぎ、という批判もあるかも知れません。
なお、この議論を、無理やり分けるとすれば、主に二つの要素があって、
(1)「文を短くするために言葉が落ちる、省略する、厳密でなくても分かりやすい表現をする」ことによる波及効果
と、もうひとつの要素は
(2)ある理論の「特殊性」と「一般性」のバランス
ということですね。
たとえば、
「●●町のほとんどの人々は、毎日必ずまぐろを食べる」
という事があるとします。
※結構びっくりする話ですよね。
ところがこれを、「●●町の人々」から「日本人すべて」、と拡張する(=一般化する)と、言えることはせいぜい
「ほとんどの日本人は、毎日必ず食事を食べる」
になってしまって、理論の意味がほとんどなくなります。
ただ逆に、もとの理論を特殊化して、
「●●町の鈴木太郎さんは、毎日必ずマグロの赤身を食べる」
とまで言えたとしても、「あ、そう」で終わってしまいますよね。
実際の内容はもっと細かいニュアンスの問題だと思うので、書き手の「センスが問われる」という事でしょう。
そして、
『「●●町がまぐろを食べる」という内容を伝えて、「日本人はみんなまぐろを食べる」と読者に誤解させる』
といった類の問題があります。(2)による(1)の問題、とも言えます。
・・・
ここまで書いてくると、「こんなにいろんなことを考えなければいけないのー?」、と、文章を書くのが面倒臭くなって「実際どうすりゃ良いんだ?」となりますが、まあ、なんとかなるでしょう。(^^;
人間、例えばコップをつかむ、と言うときには、たくさんの感覚と筋肉を同時に使って、自然に行っているものです。
「いま、薬指でコップの表面を感知したから、親指の力をさらに強めよう」などと、いちいちは考えません。
コップを落とすと言う失敗を繰り返し、この「同時処理」を会得しているうわけですね。
ただ、文章の書き方を失敗しても、コップが割れたりしないので、ほとんど気づかない、という事が怖いですよね。
読む方であればなおさらです。
ですので、お互いの批判、コメントというのは、とてもありがたいものだと思うわけです。
ですので、ぜひコメントをつけてくださいね(笑)
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