「欲しいものが欲しい」
糸井重里さんの名コピーですね。
よく言われていることですが、バブル以前は「欲しいもの」が明確だったわけですね。
三種の神器、3Cと呼ばれたもの。社会インフラ。
で、「自由競争市場経済」により、様々な技術革新により、結局ほぼ満たされた。
もっと言えば、「ベーシックな資本主義によって実現された産業」が提供する製品・サービスによって、分かりやすいニーズがだいたい満たされてしまったんです。
これまで、あるニーズを満たすのに、最初「100」の労力がかかり(研究開発とか)、その後は毎年「10」の労力でそのニーズが継続的に満たせるとします。
そうすると、あらたなニーズがないと、労力がさほど必要なくなります。失業が発生してしまいます。
(実際は、この失業がストレートに反映されないよう、貨幣経済・金融等が緩衝材になっているのですが、それも限界に来ているわけですね。)
それで「マーケティング」なんて物が流行って、市場経済原理を用いて人間から強引にニーズを引き出す、という力学になった。
「欲しいものが欲しい」インフレ
「欲しいものが欲しい」デフレ
「欲しいものが欲しい」の意味が、上下で違います。
んでまあ、「この後どうするよ?」という話。
まず、どういう世の中を理想とするかを思い浮かべてみましょう。
1.もうこれ以上世の中の技術革新を期待せず、あらたなニーズを探すことをせず、現状に満足する世の中を理想とする考え方。
2.マーケティングと自由競争市場経済原理をもって、ぐいぐい僕らのニーズを発掘していこうという考え方。
3.「分かりやすいニーズなんだけど、それを解決するには大規模投資が必要な物(ex.ガン克服など)」がまだ残っているので、引き続き市場経済原理でそれを実現させようとする考え方。
どのような世の中を理想とするかは、ちょっと議論からはずします。
では、何が言いたいか?、というと
A:経済システムというのは、社会的理念/理想を実現するための、あくまで「道具」である。「自由競争経済システム」が理念なのではない。
B:これまでは、「人類共通の分かりやすいニーズ」があったので、「自由競争万歳」で全世界的に進歩することができた。
C:現在は経済システムが「個人のニーズ」を引き出そうとしている。
D:これからは、「どんな理想があるから、経済システムを通じて、どのような世の中を作ろうとするか」というデザインが必要である。これは、国民一人一人の意識と、政治による意見集約力が必要である。そしてその理念を、行政が「金融政策・財政政策・産業政策」によってそれを実現していくものである。
E:政治・社会のグローバリゼーションが無いまま、金融・経済のグローバリゼーションを突き進むのは、マイナス面が大きく、危険だと思う。
F:インフレやデフレといった貨幣の問題は、本来国が(ある程度)コントロールできるものであるはず。これがコントロールできないのは、金融・経済の乱暴なグローバリゼーションの影響ではないか?経済のグローバル性が必要なのは、あくまで財・サービスの取引により両国民が利益を得る場合であり、金融にグローバル性はさほど必要ないのではないか?
平成の「士農工商と鎖国」論、とでも申しましょうか?(^^;
※「言葉足らずだ」、あるいは「そうとは言い切れないんじゃないか?」と自分で思いつつ、とりあえず掲載します。
参考:
ono: 欲しいものが欲しいわ
「勤勉な日本人」はウソ?
うわ、ゲームボーイ欲しい! ←本当に欲しいか、疑問を感じてきた(^^;
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