ドラえもんの最終回、養老孟司、イノセンス
ドラえもんの最終回という、チェーンメールで沢山流れたネタ。
悲しい結末パターンとハッピーエンドパターンと2つあって…
・悲しい結末パターン
のび太が交通事故で植物状態になってしまう。ドラえもんのすべての道具を使ってものび太は元に戻らない。・ハッピーエンドパターン
ドラえもんは、最後に残った道具…「どこでもドア」で、友達としてのび太の行きたい場所=天国に連れて行く…。
ある日ドラえもんが故障して、動かなくなってしまう。22世紀でも直せないと分かり、のび太は嘆き悲しむ。しかしそこで一念発起し、「ドラえもんを直す」の一心で科学者を目指す。やがて最高の科学者となったのび太が、遂にドラえもんを復活させる。と、結構良くできた話です。この2つは誰かが作った創作で、公式の最終回ネタ、と言うのもありまして。
再起動したドラえもんが、涙顔ののび太君を見て
「やあ、のび太君!宿題は終わったかい?」
「…ああ、今終わったよ。」
藤子不二雄atRANDOM
でもまあ、創作の方が、ちょっとジーンとする話ですよね。
この創作ネタの2つに共通する事は「動かなくなる」ということ。
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いま、養老孟司先生の「運のつき」という本を読んだのですが、最初の方のテーマは「死」です。養老先生は解剖学の先生なので「死というより、死体。死体というものは現実としてよく見ていた。死体、はある。死、はない。もちろん、自分も死は近づいているが、死を恐れることはないはずだ。」というような事をおっしゃっていました。
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昨日、イノセンスという映画を見てきました。テーマは「人形」。限りなくサイボーグ化された人間。ほとんど人間と同じ様に動くロボット(/アンドロイド/人形)の境界が極めてあいまいな世界。そこで、人間は人形よりなぜ偉いのか?そして、人間は死にたくない=人形になりたくないのに、何故人形を欲しがるのか?
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この3つのことから考えたこと。
自我ってどこにいるんだろう?という話。「我思う(疑う)、故に我あり」の我です。イノセンスの「ゴースト」みたいなもの。魂、かもしれない。
・モノ、や、情報、ではない。そういう意味では、我は「ない」
・時間軸がないと、存在しない。ストックではなく、フロー。
・オブジェクト指向的なものとは、おそらく相性の悪いもの。
私の場合、からだの調子が悪いと、こういうことばかり考えるようになります。(ドラえもんの話だけで終わらせるつもりだったのに)
体には、気をつけたいものです。
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コメント
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>・オブジェクト指向的なものとは、おそらく相性の悪いもの。
激しく同意!
PS
ちょっとだけお願いがあるんですが良いですか?
(もしよろしければ なんですが)
Mybloglistで題名や内容がまったく「なころぐ」の表示がされないんで、
ウェブログ→設定→表示設定の「概要の文字数」を40とか50くらいに設定していただけるとうれしいのですが。
この文字数で RSSの表示文字数も制御されているようで、どんな内容かちょっとだけ見れるようになりますんでして・・・
もし意図して表示しない ということにされてるのであれば、このお願いは無視して頂いてかまいませんので。
よろしくご検討ください
投稿: ono | 2004.03.22 00:17
神林長平の「死して咲く花、実のある夢」(ISBN:4150305668)なんか読んでみるとよいかもしれませんね。人形か人間かなんて気にならなくなりますよ。
投稿: n12a@生活標準化センター | 2004.03.22 00:35
>神林長平
始めて名前を伺いました。今度読んでみることにします。
ありがとうございます!(^^)/
投稿: nako | 2004.03.23 09:17