言葉の限界
以前、コンビニやファーストフードの店員さんが、「よろしかったでしょうか?」という言葉を使うことについて、記事にしたことがあります(こちら)。どうして「よろしいでしょうか」でなくて、「よろしかったでしょうか」と言うのか?どういうつもりで言っているのだろうか。
この記事は反響が大きくて、いろいろな意見を頂きました。そこで、もう一度、言葉について考えてみました。
人間同士がコミュニケーションをとる為に必要な「言葉」という道具。ただ、どうも万能な道具ではないようで、「よろしかったでしょうか」のように、いろいろな捉え方をされてしまうものも有るようです。
交通標識の「進入禁止マーク」は、進入禁止という意味です。でも、標識は見たのに、その意味を分からず、突っ込んでくる車がいるとしたら、危険ですよね。
交通標識は、そういうことが無いように
1.「あらかじめ、公的機関で、内容を厳格に規定する」
2.「分かっていなければ免許は取らせない」
3.「間違えたら違反として取り締まる」
という事になっています。
残念ながら、日本語というルールは、
1.公的機関で規定されていない。時代と共に意味が変わることもある。
2.分かっていない人でも、言葉はしゃべる。
3.間違えて使っても、処罰されないし、注意されない場合もある。
ですので、「その意味を分からず、突っ込んでくる車」がいることもあるのです。
大事なことは、「より正確なコミュニケーションをとること」です。ですので、
A.より正しい(とされる)日本語を覚え、分かり切ったエラーをなくす。
というアプローチの他に、
B.日本語のやりとりだけではコミュニケーションが伝わりきらないことがある、と
いう限界も認識する。そして、日本語で会話をするときに
・伝わらないかも知れない、という可能性を頭に入れておく。
・伝わっていないかな、と思ったら、別の角度で説明をしたり、図で説明
したりする。より正確なコミュニケーションを取ろうとする努力を惜しまない。
・相手から話を聞くときも同じ。
というアプローチも大事ですね。
交通事故を起こさないためには、一方通行だからといって反対側から「突っ込んでくる車」がいないとタカをくくらないこと。「~だろう」運転ではなくて。「~かもしれない」運転をする事が大事だ、と警察で言われます。
運転だけでなく、言葉でのコミュニケーションでも同じ事なのでしょうね。
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