「お盆」の意味をもう一度考える
旧暦で7月15日、この時期は「お盆休み」と言われ、「亡くなった方の魂の供養をする時期」とされています。正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言い、サンスクリット語(古代インド語)の「ウラバンナ」という言葉から来ています。
実は、この「ウラバンナ」は「逆さ吊り」という意味です。「お盆とは、逆さ吊りと言う意味」なのです。「覆水盆に返らず」などとは、全く関係ありません。
仏教の教えに、下記のようなくだりがあります。
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『…お釈迦様の弟子の一人に、目連という人がいました。生き別れになって死んでしまった母を想い、母の幸せを願うため、厳しい修行に耐えていました。ある日、ついに心の目であの世にいる母の姿を見ることができました。
しかし目連が見たのは、あの世で逆さ吊りにされ、目に涙を浮かべている母の顔でした。』
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そして、Google等で「盂蘭盆会」を検索すると、この話はだいたい以下のように続いています。(バージョンA)
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『…目連の母は、地獄に落とされ、逆さ吊りにされていたのでした。
お釈迦様に相談したところ、7月15日に大規模な法要を行えば、成仏できると言われました。そこで、目連が言われた通りに法要を行うと、母は無事極楽往生を遂げたのでした。
だから、お盆には供養を行うのです。』
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とまあ、こんな感じです。私は、この説明はいささかしっくりきませんでした。しかし、とあるお坊さんに言われた話は、これと違っておりました。(バージョンB)
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『…なぜ、私の母は逆さ吊りにされ、あんな苦しそうな顔をしているのですか?と、目連はお釈迦様につめよりました。自分は母を助けたい為に、一生懸命修行をし、聖人となるべく努力したはずなのに、と。
すると、お釈迦様はこう答えました。
よく見なさい。逆さ吊りにされているのは、お母さんではなく、おまえの方なのだ。おまえが逆さ吊りにされているような苦しみを味わっているから、お母さんはそんなおまえを見て、泣いているのだよ。』
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この話をしてくれたお坊さんに言われたことは、「先祖に祈りを捧げ、自分たちを見直す。お盆は、そう言う時期なのだ。」ということでした。
物事には、表が有れば、ウラがあります。「うらぼんえ」と「ウラ」はおそらく違う語源ですが、言っていることは同じのように思えます。
婦人と老婆のだまし絵の様に、1つの事象がまったく違う意味に捉えられることがあります。
高校の時に、習字の先生に言われたことがあります。先生は、『大』という字を書きました。大変美しい字でした。そして、こういいました。
「字というものは、書いた黒い部分だけでは字にならない。回りの白い部分が、この『大』という字を力強く支えているのだ。だから、大という字があるのだ。
ウラ(裏)という言葉を、語源辞典という本で見てみました。「ウ」はサンスクリット語で「空」の意味。ラは、ただの接尾語、または「…の方」という意味、と書いてあります。ルビンの壺というだまし絵でも、同じようなことを実感できると思います。
否定的な言い方をすれば、「ウラ」というのは、「表が見えているときに見えない部分」とも言えるかも知れません。
(出版界は一時、「壁」ブームでした。バカの壁以来、いろいろな壁が出現してきました。言いたかったことは、あなたにはまだ見えていない部分がある、その壁の向こうには、違うモノが見えるということですね。)
ことば、あるいはモノの考え方というのは、「区別」だと考えられます。「線引き」と言っても良いかもしれません。
しかし、上のだまし絵にもあるように、一つの線に着目すると、違う線が見えなくなります。
ある瞬間においては、ひとつの物事は、ひとつの括り「老婆か、婦人か」としか考えられないのが人間の脳の限界なのですね。
(ITチックに考えると…、あるオブジェクトが存在したとき、それをある1つのクラス(型)から作られたインスタンス(実体)であると認識してしまうわけです。同時には、2つのクラス(型)を認識し得ないのです。)
先ほどの目連の話に戻しますと、お釈迦様は目連の苦行を否定したわけではない、と私は思っています。「ただそういうものなのだ」と説いているだけなのではないでしょうか。
というか、「苦行をすればよかったか、しない方が良かったか」と考えることが無意味だと説いていると私は思います。無意味だと説くことも無意味かも知れませんが。
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