原因と結果の法則
ここのところ、数人の人に、同じ事を言っていることに気がつきました。
「ある出来事(結果)の原因は、複数の可能性を考えるべきである」
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彼女がメールの返事をくれなかった
のは
彼女が私のことをキライだからだ
と思いがちです。
・携帯電話の電池が切れていたのかも知れない
・事故や病気に遭っているのかも知れない
・書こうと思っていたけど、忙しくてど忘れしたのかもしれない
・あなたに良い返信メールを書こうと思って、ついつい内容がまとまらなかったのかも知れない
ということを考えないわけです。
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昔、イタリアで食中毒が起きました。政府はトマトサラダが関係していると判断し、原因とされたトマトの出荷を停止しました。そして、食中毒が激減しました。
これで、イタリアの民衆は、トマトが原因だと判断しました。トマト生産関係者は社会的制裁をうけたことでしょう。
しかし、時期が経ち、再度トマトサラダを食べ始めたところ、再び食中毒となりました。トマトをいくら調べても、食中毒の原因はありません。イタリアでは混乱がおこりました。
実は、あとで分かったのですが、トマトにかける「生のオリーブオイル」の方が原因だったのです。
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日本でも、似たような話はいくらでもあります。有名なのは、松本サリン事件の報道被害ですね。
松本の会社員宅で、毒ガスがまかれ、数人の死者が出ました。その会社員が助かったこと、会社員が自宅に薬品を持っていたことなどから、会社員が逮捕されました。そして報道で、その会社員を完全に犯人扱いすることとなりました。
しかし、ご存じの通り、この事件はオウム真理教によるテロだったのです。
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ここのところネットで騒がれている、大谷某氏の「フィギュア萌え族(仮)の登場が幼女殺人の原因である」、とか、私の言うことを聞かないと地獄に堕ちる、とか、血液型B型は気まぐれだとか、全部そうです。上のエピソードと対比して、もう一度吟味する必要があると思います。
(大谷さんの説については、たとえば、「フィギュア萌え」世代の登場が原因なのではなく、旧世代ロリコンの犯行だったのではないか、とか。)
もちろん、人間が生きていく上で、限られた情報を元に、一定の価値判断をして、行動に移していくことは必要です。その判断(意見)を表明する自由は、基本的には誰にもあります。
しかし、その意見を語る時、自分の予想でしかないことを自覚することが必要だとおもいます。その意見を聴く方も、あくまでその人の意見であるということを自覚すべきでしょう(報道被害っていうのは、一般の視聴者の方にも責任があることだと思います)。どんなに説得力があったとしても、どんなに上手なたとえ話をされたとしても、たとえ自分の目で見たとしても、同じ事です。
安易な「原因と結果の関係」を規定しないで、規定したとしてもそれにおぼれないで、つねにクリアに物事を見ていきたいです。現代ではそれを「誠」と言うんだと思います(ちょっと陳腐な物言いですが)。
参考:
◇言戯: 怒りの矛先
→「理不尽の連鎖」とは、さすがそんちょさん。
◇たとえ話はほどほどに
→原因と結果の話の次に、たとえ話(物語)に関しても考えたいと思います。
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コメント
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物事というのは、多面的に見た方が面白いものですが、それはとても面倒で時間のかかる事ですよね。
だから、「分かり易い答え」を売る人間がいて、それを買う大勢の人間がいる。
分かり易い答えばかり買っていると、分かり易い答えしか見えなくなってしまうわけで、それは恐ろしい事だと思います。
非常に考えさせられる記事ですね。
あ、トラックバックありがとうございました。
投稿: そんちょ | 2005.01.12 12:52
コメントどもです。
> 物事というのは、多面的に見た方が面白い
> ものですが、それはとても面倒で時間の
> かかる事ですよね。
仰るとおりです。必要なのは、「その面倒なことを放棄している」という自覚なのではないかと思うのです。
そして「分かりやすい答えを買っている」という自覚です。
難しいですねー。
投稿: nako | 2005.01.12 17:06